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元興寺についてAbout Gangoji

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国宝、世界遺産について

元興寺とならまち

東大寺大仏殿に驚愕、阿修羅像に感嘆。
そして法隆寺、唐招提寺、薬師寺へ…。
かつてこれが奈良観光の定番でした。

しかし、平成10年(1998)、
元興寺が「古都奈良の文化財」の一つとして
世界文化遺産に登録されると、
周辺の街並みは
そのバッファーゾーンとして位置づけられ、
「ならまち」として新たな奈良の名所となりました。
しかし、この「ならまち」の大部分が
かつて元興寺の境内地であったことは
意外と知られていません。
ここでは古代元興寺から
「ならまち」の成立までを簡単にご紹介します。

ならまちのおこり

ならまちの起こり

MAPを詳しく見る

古代元興寺の伽藍については、おおよそこの図のように推定されています。残念ながら、古代元興寺の伽藍を知る遺構はほとんどわかっていません。元興寺全室の建物や、塔跡基壇とそこから見つかった鎮壇具、各所に残る礎石がかつての巨大寺院の片鱗をうかがわせますが、大伽藍は今までは「ならまち」の下に埋もれてしまい、その姿を偲ぶべくもありません。
平安時代、長元8年(1035)の「堂舎損色帳」には金堂や講堂の天井が朽ちて雨漏りし、回廊の瓦は落ち、僧坊の一部などは建物がなくなり大木が映えている有様だったことが書かれています。平安時代になると国の財政援助がなくなり、古代から続く寺院の多くが消滅していきましたが、元興寺も例にもれず困窮していたようです。しかしこれで元興寺が「ならまち」になってしまったわけではありません。もちろん早い時期に建物が失われた食堂以北や南大門以南、西僧坊は町になってしまいましたが、元興寺中枢部はその後も存続し、鎌倉時代には極楽坊が改築されるだけでなく、小塔院や中門堂などにも僧が往持し、多くの信仰を集めていました。
大きな転換は宝徳3年(1451)です。この年の10月、興福寺に徳政令を求めて蜂起した大和の人々が元興寺周辺になだれ込み、民家に放火しました(宝徳の土一揆)。この時、折悪く強風が吹き、元興寺金堂、小塔院が全焼してしまいました。従来この放火によって元興寺がなくなり、町になったと考えられていましたが、その後も南大門で猿楽が行われるなど、元興寺の伽藍はなんとか維持されていたようです。とすると、いったいいつ「ならまち」は出来上がったのでしょうか。

現在の元興寺とならまち

元興神(ガゴゼ)について

江戸時代の初め、奈良の町をくまなく歩き、その歴史を調べた村井古道が著した「奈良坊目拙解」には、中新屋町や西新屋町など「新屋」と呼ばれる町の大半が永禄から天正年間(1573~92)ごろ元興寺伽藍内に成立したと記載されています。どうも元興寺伽藍内に町ができたのは戦国時代も終わりに近づいたころのことのようです。このことを裏付けるのが発掘調査の成果です。元興寺旧境内は重要な遺跡として保護され、毎年多くの発掘調査が行われています。旧境内の発掘調査では井戸や柱穴、ごみ穴などたくさんの遺構が見つかっていますが、1550年代より前の遺構は極端に少なく、かわりに1550年代以降になると井戸や柱穴など人の生活痕跡が見つかるようになります。町屋街化を決定づけたのは元興寺の建物礎石を片付けてしまったことです。元興寺伽藍内ではこれまで講堂、鐘楼、金堂の礎石を、穴の中に落とし込んで埋めてしまった痕跡が見つかっています。これは古代の元興寺を完全に否定してしまう行為で、これこそ「ならまち」の完成を象徴するものですが、そのいずれもが1600年代初めに行われているのです。戦国時代後半から元興寺中枢部が町になり始め、江戸時代に入ると急速に都市開発が進むようになるのですが、その背景は、織田・豊臣政権が奈良に進駐することを契機に、それまで元興寺を支えてきた古い権威が奪われてゆき、江戸幕府の成立でこれが決定的になったというところではないでしょうか。
古い街並みが残る「ならまち」ですが、歴史を紐解くと実は奈良では意外に新しい街であったという事実が見えてくるのです。

1300年つづく、はじまりの地。
奈良の国宝・世界文化遺産。