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元興寺極楽坊縁起繪巻について

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元興寺極楽坊縁起繪巻

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元興寺極楽坊縁起繪巻

奈良市指定文化財
元興寺極楽坊縁起繪巻

元興寺は蘇我馬子が崇峻天皇元年(588)、飛鳥に創建した飛鳥寺(法興寺)を基とします。
日本最初の本格的伽藍寺院、「仏法興隆」の寺の由緒から、平城遷都にともない、「元興寺」として養老2年(718年)に寺籍を平城左京(外京)に新築移建されました。創建当初の新たな金堂本尊は弥勒如来であり、飛鳥大仏(釈迦如来)は旧地に留まり、初伝の三論、法相教学の拠点として優秀な僧を輩出しました。その学問僧たちが寄宿し学問した堂舎が僧坊であり、「元興寺極楽坊縁起」に登場する智光と礼光(頼光)は同朋であったといいます。
智光法師には三論宗の「浄名玄論略述」や浄土教の「無量寿経論釈」など多くの著述があったとされます。特に阿弥陀如来西方極楽浄土の信仰に係わる先駆的著作として、天台の良源や恵信の「往生要集」などに引用され、平安時代半ばから隆盛となる阿弥陀浄土信仰において、智光の存在は再評価されました。智光が感得した阿弥陀極楽浄土の変相図、すなわち「智光曼荼羅」にまつわる説話は慶滋保胤(~1002)の「日本往生極楽記」に著されて、智光の住んだ僧坊は、極楽浄土図を本尊としたが故にか、あるいは往生者の智光、礼光に因み「極楽坊」とよばれて浄土信仰の聖地のひとつとなりました。
元興寺の伽藍堂舎は律令体制の衰退にともない退転を余儀なくされましたが、その旧境内には庶民の町屋が建てられて「ならまち」が中世以来成立してゆきます。
浄土往生信仰が庶民層に広がると、その庶民の信仰により極楽坊は護持されてきました。智光曼荼羅の原本は焼失しましたが、各種の写本を伝え、曼荼羅堂(極楽堂)と禅室(僧坊)が国宝建造物として現存し、近年世界文化遺産に登録されました。
「元興寺極楽坊縁起絵巻」は、徳川幕府の百石朱印寺の南都極楽院とその本尊智光曼荼羅の由来について、19段からなる絵と詞により説くもので、上下2巻からなります。下段奥書によれば、元禄14年(1701)、旧来の縁起が痛んだため、極楽院住職で西大寺長老を勤めた尊覺律師(1651~1719)の需めにより、東大寺華厳長吏二月堂別当、安井門跡であり後に東寺長者となった能書家の大僧正道恕(1661~1733)が新調に及んだことを記しています。道恕は久我氏から鷹司氏の猶子となり仁和寺に入って蓮華光院(安井)門跡となった多芸の僧。絵様は金泥彩色の華麗な画面を背景として、肥痩ある描線の人物や景観は親しみやすいです。道恕と同じく狩野永納(1630~1697)の弟子であった浄土宗の画僧明誉古礀(1653~1717)の筆とする意見があります。

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1300年つづく、はじまりの地。
奈良の国宝・世界文化遺産。